「……――で、私にどうしろと言うんですか」















朝起きてみれば昨日のことは夢であったのだろうか、と思ってしまった。



けれど、現実は残酷にもそうはいかない。

今日は一日中、学校でもひたすら混乱の渦中にいた。

あれは本当だったのか、それともただの夢幻だったのか。

どちらかと言えば、何もかもが嘘であったと願いたかった。

授業中でも少し気を抜けばそのことばかりが浮かんできて、どうしようもなかった。

帰り道、未だに脳内で渦巻く暗雲を消し去りたい所であった私。

だが昨晩に私を助けてくれた二人とは、もう会えないと思っていた。



…しかし、世の中というものは案外狭い。





「仕方ねぇから、この店で働いてもらうぞ?」

「給料は悪くないと思うんですけどね、意外に」





あの趣味の悪い看板を掲げている店と、よもや関係を持とうとは。



いや、確かに業務内容を知りたかった。知りたかったがこんな形で知ることになろうとは誰が思う。

複雑な心境の中、私は畳の上に正座している。

線香の香りが微かに漂ってくる店内で、しかもこの二人が目の前にいて、あまり崩れた格好をしたくなかった。

してはいけないような気に、させられる。



「まっ、とりあえず説明させてもらう。訳分かってねぇだろうからな」

「今回はちゃんと言わせてもらいますよ?一応、疑問はなくなると思います」

「…お願い、します」



そもそも、下校途中の女子高校生をいきなり店内に連れ込むとはどういう了見だ。

どこか間違っている気がしてならない、てっきり不審者か何かかと警戒したのに。

普通に歩いていていきなり腕と肩を掴まれた、誰だって驚いてパニックになる。

見たことのある銀髪だったから、私は別の意味でパニックになりかけた。

有無を言わされずそのまま誘拐、万事屋の店内に引きずり込まれた。

その時に見えた、あの看板。私を見下ろし、嘲笑われている気がして仕方なかった。



「昨日も言ったがもう一度言う、この世界には多くの負の念を元にして生まれた、酷って化け物がいる」

「……そう、らしいですね」

「それを退治するのが俺達のような闇影だが、退治って言葉には少し【語弊】があんだよ」



語弊。

どうも引っ掛かる、彼らの世界に対して半信半疑のままであるのに、耳だけは一生懸命傾けてしまう。

ただの好奇心、なのだろうか。いや、まだ私は【狭間】にいるからだ。

真偽の、狭間。





「酷を【奈落酷界】って世界へ【強制帰還】させるのが、俺達の仕事だ」





昨日の訳の分からない呪文の、最後に必ずついていた強制帰還という言葉。

いきなり昨日の出来事が鮮明に視界に浮かんできて、夢ではないのだと思い知らされる。

急に鼓動が早くなった、冷や汗がじわりと滲み出す。



そうだ、夢ではない。あれは本当のことだった、現実だったのだ。



疑っていた自分が馬鹿らしくなってくる、けれどすんなりと受けいられるほど私は対応能力がない。

いきなり全く知らない世界のことについて言われても、完璧に信じられるわけがないだろう。

経験してしまったことが大きい、こんなこと口で言われただけでは理解出来ない。



「強制帰還ってのはそういう意味だったんだ、だから俺達はあの酷を【根本的に】消したわけじゃねぇ」

「ぇっ、じゃぁどうなって」

「奈落酷界って世界に送っただけであって、てめぇを襲った酷はその世界で存在してんだ」



つまり、死んだわけではない、というイメージでいいのだろうか。

奈落酷界、なんて良いイメージのしなさそうな世界に送られるとは、ある意味で酷達は不憫。

地獄という言葉があるが、それと似通ったものを想像してしまう。

けれどとりあえず、この世界から消えているのなら安心。

その世界から出られないといけないわけだ、彼らがまた私の元へ来ようと思うのなら。



「ちなみに昨日、僕達が使っていた言霊というものについてですが」



不意に、星夜さんへ説明のバトンが渡された。

慌てて沙羅さんから視線を外し、思考回路を元に戻して彼に集中する。

相変わらずのタキシードだった、シルクハットはさすがに被ってはいなかったものの。

長き黒髪の三つ編みも健在している。



「酷は負の念で出来ていると言ったでしょう?だから、彼らに対抗するには僕達も【己の念】を使わなければならない」



己の、念。

いきなりそう言われてもなかなか感覚が掴めない、【念=感情】でいいのか。

そういえば、昨日も迷いながら言霊とやらを言ってみてもイマイチ効果がなかった。

落ち着いて集中出来たあの時、嫌な雰囲気になったものの一番成功したように感じた。

あの後に彼ら二人の声が聞こえたが、――記憶があまり残っていない。

何も辺りの風景に変わったことになっていなかったから、上手く行ったのだと勝手に判断しているのだけれど。



「しかし念なんてモノ扱い難いにも程がありますよね、だから言霊を使って集中することにより念を使うんですよ」



やはり、そうか。

集中することが、何もかもの鍵を握っている。

随分と左右されたものだ、普段の生活では意識したことなどなかったのに。

それ以前に、自分の念というものですら意識したことがない。



「最後に公式みたいに言ってやろうか?【言霊を使い自分の念を扱って、酷を奈落酷界へ強制帰還する。】それだけのこった」



数学などの教科じゃあるまいし。

沙羅さんが横から口を挟んだ。それだけのこと、と言う割にはなかなか重い内容ではある。

簡単に受け止めようにも難しい、自分の中で何度か内容を整理した。

とにかく、酷とやらを目の前から消すには己の念を扱えばいいと。



「昨日も言ったが、てめぇは酷を呼び寄せる体質してやがる。だからまた狙われっぞ?」



また、という言葉がのしかかる。

あの恐怖をまた体験しなければならないのか、それだけは嫌だ。

何より、何も抵抗出来ないのは嫌だ。



せめて足掻く力くらい、欲しい。



「この店で働け、てめぇを闇影にする。酷と渡り合えるように、訓練してやる」



しかし、彼らに指導してもらうことに不安がないことはない。

言動は最悪で、――いやまぁ、時々は良いことを言うこともあるが、それでもお近づきにはなりたくない。

自分の命と天秤にかけてしまえば、そんなこと言っていられなくなるのは分かり切っているのだが。

それでも頭の中で【肯定】か【否定】かの押しくら饅頭。ひしめき合ってどちらも負けない。

うー…と唸って考える。ひたすら考える。



だがふと、思ってしまった。





「―――…どうせ私に、拒否権もないんでしょ?」





沙羅さんの前で、彼女の求める以外の答えを言ったところで無意味、だということはどこかで分かっていた。

少し目を見開いた彼女だったが、すぐに笑みを浮かべる。

意地の悪さだけが際だつ、その表情。



「分かってんじゃねぇか、なら諦めろ。首を縦に振れ、それ以外は認めねぇ」

「うわぁ、無茶苦茶」

「俺がまともだと、思ってんのか?」



頭を思わず抱えたくなるが、その代わりに私も笑い出してしまった。

これから先にある不安ですら、どうでも良くなってくる。

もう行ける所まで行くしかない、彼らに賭けてみるしかない。





「この店で、働きます」





学校の校則なんざ無視だ、命には代えられない。

迷いはない…と言えば嘘になるが、とりあえず言うしかなかった。

今は生き延びるための術を身につけることが重要だ。



「なら名前を訊こう、履歴書やらなんやらはいらねぇからな」

「あっ、そういえば訊いてませんでしたね。あなたの名前」



一方的に言われただけで、こちらからは一度も言ったことはなかった。

しかし今ここで言うというのも、何か間抜けなタイミング。

けれどまぁ、これから彼らが私を呼ぶ時に不便だろうから教えるしかない。

改めて向き合って、軽く頭を下げる。










そうせい くう
「【蒼青 空】です、これからよろしくお願いします」




















*   *   *   *   *   *   *   *   *   *















「で、調べたか?」

「えぇ、少しですが【痕跡】がありましたね」





空、と名乗った少女が帰った後。



沙羅が星夜へそう問うと、彼はすぐさま答える。

昨晩に彼が空を彼女の部屋に帰した後、少しだけ周囲を調査していたのだ。

その調査結果は、かなりの【異常】を伴っている。



「やっぱり、【誰かが】あいつの家の周りに【結界】張り続けてやがったのか」

「だから【今まで】彼女は狙われてなかったようです、しかしその結界が【もうなくなって】しまっていた」

「どういう理由か分からねぇが、それであいつは危機に陥った。―――俺達がいなけりゃ不味かったな」



つまり、空が狙われていなかったのは偶然でもなんでもないということ。

酷を呼び寄せやすい体質というものは、生まれた時からそうであったはず。

それなのに彼女はそういう経験をしたことがなかった、その理由を彼らは見つけたかったのだ。

そして判明したのが、第三者の手による結界の作成。



「彼女、【念の許容量】が半端じゃありませんね」

「だが酷に狙われることはなかった、その誰かのおかげでな」

「…一体、誰でしょうね。そしてなぜ、今は結界を張れなくなったのか」

「どっちにしろ、あいつの関係者に闇影がいる。【最初っから】あいつはこの世界に関わってた」



その関係者が、今どこにいるかは彼らにも分からない。

だがしかし、彼女がこの年になるまで延々と結界を張り続けていたというのなら、随分と手練れの闇影。



結界の永続的発動は、本人の念をかなり食い潰すはずだからだ。



十何年間と、易々と出来るはずがない。

が、その人物に引っ掛かりを覚えつつも、さらに彼らは考えなければならないことがある。





「昨日のあの酷共も【誰か】の差し金だな」





昨日の出来事には、黒幕がいる。



 ディークラス
「【D級】でしたよね、あの酷達」

           ダブルディークラス
「操ってたのはおそらく【DD級】以上、そいつが【本当に】空を狙ってやがる」



酷にも強さというものがある、昨日の酷達は一番下に位置するものだ。

しかしそういう酷は、己自身よりもさらに上の酷の下につく場合が多い。

というよりも、無理矢理支配下に置かれてしまう。

抵抗しようものなら、上の酷に吸収されてしまうから、保身に走るわけだ。

今回の場合、あの量の酷達を手下に置いていたのだから、黒幕的存在の酷はそこそこのものとなる。



「だぁくそ、面倒だな」

「まぁ気長に行きましょう、とりあえず彼女の特訓が最優先ですね」



ごちゃごちゃと、今考えてもどうしようもない。

目の前にある、優先事項を実行していくしかない。

濁っていた空気を肺から押し出して、沙羅はそのまま奥の部屋へ消えようとした。

その前に、ふと星夜が声をかける。





「そういえば沙羅さん、あなた誰かに言霊とか教えたことありましたっけ?」





特訓をするのはいいが、果たして彼女がそれを出来るのだろうか。



嫌な予感しかせず、星夜が乾いた笑みを浮かべていた。

柱に手をかけていた沙羅は、そのまま一瞬止まった後――振り返る。





「そんなもん、知るかよ」





あっさりと質問を切り捨てた。

あぁやっぱり、と星夜はうなだれる。

明日から始まる空の生活を思うと、不憫でならない。



「…でしたよねぇ、あなたが誰かに教えてる所なんて見たことありません」

「俺は【媒体の使い方】教える方が専門だぞ」

「一応【弟子】もいたというのに…一体どういうことでしょう?」

「【あれを】弟子と思ったことは一度もねぇがなぁ」

「全く、じゃぁ言霊は僕が指導しますよ?」

「おぅ、任せた。てめぇは【師匠】が良いからな」


喉で笑い、今度こそ沙羅は部屋の奥へと消えた。

星夜はといえば、日常生活に食い込んでしまった少女のことを考える。

普通、とは決して言えない少女。

本当に、どう転ぶかなど分からなくなってきた。










「まっ、面白く、なればいいんですけど」










それでも、求めるものはただ一つ。



窓から侵入してくる橙の光を遮断するかのように、カーテンを閉めてしまう。

もうすぐ沈んでいく陽を嘲るように、星夜はただ嗤うのみ。















しかし、果たして陽は彼らを嘲っていないのだろうか。



































『あーぁ、鬱陶しいことになっちまったなぁ』















万事屋を電柱から見下ろしているのは、―――――――紫の双眸。